マカオのカジノ関連情報
2022年2月8日

マカオのカジノの歴史を解説 カジノが発展した理由とスタンレー・ホーについて

マカオといえば世界的にも有名なカジノの盛んな地域です。
2006年、ラスベガスのカジノ売上を超えたことで一躍注目を浴びたマカオの地ですが、カジノ産業がここまで有名になった背景には、様々な歴史的、地理的背景がありました。
マカオの歴史とカジノが辿った過去を紐解いていくと、他の国では考え難い、1国を担う産業としてのカジノを垣間見ることができます。

 

目次

植民地「ポルトガル領マカオ」時代のカジノ

マカオのカジノのルーツとなる賭博は今から300年以上も前に始まったとされています。
16世紀中期、マカオはポルトガル領になり、当時からマカオ地区では賭博が流行っていました。
政府による合法化も1847年と今から170年以上も前で、これだけでもマカオのカジノには長い歴史があることを伺い知れます。

マカオのカジノの起源

マカオ地区でのカジノの起源は、中国本土からマカオへ移民した建設業者、港湾荷役業者、家事使用人の間で流行した賭博だという説があります。
当時は現在のように法規制などはなく、胴元がテーブルを準備して、小さな賭博場がそこら中にあるような状態だったのではないかと考えられています。

1847年カジノ産業が合法化

経済的苦境からカジノ産業で税収を得る政策へ

1847年、マカオの賭博産業に転機が訪れます。
この年、ポルトガル・マカオ政庁が賭博収益による税金回収を目的にカジノを合法化しました。

1つ目の背景は1842 年の南京条約締結後、イギリス領となった香港や条約港の上海が欧米諸国の対中貿易における中心地となり、マカオの貿易港としての地位が相対的に下がったことでした。
1835 年に約3万7,000 人だったマカオの人口は、香港の開港後に半減したと言います。
1846 年、当時のマカオ総督アマラルは、マカオの自由港化を宣言しましたが、国際貿易におけるマカオの地位は回復しませんでした。

2つ目の背景には、苦力貿易(低賃金重労働者の売買貿易)の問題がありました。
当時、マカオは苦力貿易の中心地となっており、最盛期には約 300 にも上る「猪仔館」(中国人労働者の送り出し施設)が設置されたものの、国際的な非難の圧力から苦力貿易は禁止されることとなってしまいます。

2つの背景による経済的苦境を脱するため、マカオ政庁は、経済への波及効果を図り、賭博産業の合法化に踏み切ることになったのです。

貿易の中心地となった香港は賭博が禁止だったこと、マカオ地区は農工業の基盤が薄かったことなどから、マカオはカジノ産業を軸として生き残る政策を選択しました。
地域としてカジノ産業による税収に頼るという政策だったため、賭博産業での利権独占は禁止されていましたが、この合法化をきっかけにカジノ産業が大きく発展していくこととなります。

カジノ王・スタンレーホーの登場

 1960年 観光産業による収益の確保を目的として、カジノ営業権者の税金を引き上げ

20世紀半ばにはカジノ王スタンレー・ホーが登場し、マカオのカジノ産業を急速に発展させることになります。

まず、1930 年に豪興公司(Hou Heng Company)がカジノ営業権をマカオ政庁から得て、カジノ営業を始めたのが、本格的なマカオにおけるカジノ産業の始まりです。
その後、1937 年にこのカジノ営業権は失効し、後に泰興娯楽公司(Tai Heng Company)がカジノ営業権を継承しました。

それから20余年が経った頃、当時のマカオ総督馬済時は、マカオ経済の現況を調査し、賭博を含む観光業が大きく発展するのではないかという可能性を見出しました。

馬済時が 1960 年 3 月に組織した委員会では、主として次のような報告を行いました。

  1. 賭博入札制度に透明度を持たせること
  2. 泰興公司の賭博専営権を取り消すこと
  3. マカオ政庁に対する賭博税額を年々引き上げること
  4. 賭博専営権所有者の利益に税金を賦課し、それを財源としてマカオ経済発展の投資に向けること

この報告は、マカオのインフラ整備、公共事業発展につながるマカオ政庁にとっては好都合なものとなっていましたが、現専営権所有者の泰興公司にとっては相当の痛手だったため、カジノ営業権は取り消しとなりました。

STDM社、2002年まで続くカジノの独占

1961年 スタンレー・ホーを含む4名がSTDM社を設立 観光客の誘致に成功、売上を伸ばす

1961年7月に立法法令として「賭博娯楽章程」が公布されました。
内容は「従来の賭博税のみの負担とは異なり、納税のみならず、観光都市としての国際的地位向上を目指すマカオの諸事業に関する費用をマカオ政庁の負担なしで、権利獲得者に負担させながら観光都市政策を推進する」というものでした。

理不尽にも思えるこの政庁の動きに対し、カジノ営業権の獲得を目指すため、何鴻榮(後にカジノ王と呼ばれる男スタンレー・ホー)・葉徳利・霍英東・葉漢の4名の出資によってSTDM 社が設立されました。
STDM社はこの時からマカオが中国に返還されるまでのおよそ40年にわたり、マカオのカジノ産業を独占することとなります。
1970年には、STDM社が現在のリゾートカジノの原型ともいえるカジノ・ホテル・レストランの複合施設であるリスボアホテルを完成させ、観光客の誘致をより活性化し、着々と売り上げを伸ばしていきました。
その後1980年代にはVIPルームのシステムを作り、カジノの経営権を貸し出すという形で顧客の未払いリスクをジャンケットに負わせ、収益を確実に上げるビジネスモデルを確立しました。

※ジャンケットとは、VIP客をカジノに呼び込む旅行プランの作成等のサービスを展開し、その対価として顧客の掛金額の一部や負け金額の一部をカジノ業者から報酬として得るサービス業のこと。

カジノ産業が政府の機能を代行

1986年 STDM社は空港・フェリーターミナル建設などの社会整備を担うように

1982年、澳門立法会はマカオを永久性的博彩区として、「幸運博彩法」を制定します。
マカオにおけるカジノ産業を「賭博娯楽」から「幸運博彩」と位置付けを改めました。
幸運博彩政策は、賭博業全体の中で収益の7割を占めるカジノ産業を中心として発展させる為の政策でした。
これをきっかけにさらにカジノの発展は加速することとなります。

更にこの時スタンレー・ホー率いるSTDM社はドックレース(賽狗)、競馬(賽馬) の権利をも買収し、マカオのすべての賭博に関する事業を握るようになりました。

1986 年、5回目の権利更新では、ヘリコプター空港と国際空港が建設され、タイパ島の開発、他の年にもフェリーターミナル、文化センター、友誼大橋などマカオに欠かせない施設がSTDM社によって建設されています。
1986 年、「修訂的博彩合約」において国際空港建設の契約更新の際、明記された STDM社の投資額が5000万パタカとなりました。
日本円に換算すると7億円以上にものぼります。

このようにカジノ産業を中心としながらも社会整備機能を担うことによって、賭博産業に対する地域住民への懐柔策の側面もあったと言われています。

マカオ中国返還後のカジノ

2001年 STDM社の営業権独占による治安・業績の悪化 → カジノ営業権を最大3社に開放、外資企業が参入

マカオが中国に返還された後の2001年、STDM社のライセンス期限終了と共に、マカオ特別行政区政府は、STDM 社が40 年間1社独占で所有していたカジノライセンスの独占許可を2002年から最大3社に開放する新たなカジノ政策を打ち出しました。

STDM社が営業権を独占していた中で、ジャンケットとの法的背景のないグレーなやり取りが横行し、犯罪や暴力組織が目立つようになりました。
治安が著しく悪化してしまったマカオでしたが、中国へのマカオ返還を機にカジノ産業を健全なものにし、過去のイメージを払拭するべく新たな政策が取られることになったのです。

更にこのころになると、収益が治安の悪化と共に伸び悩んでいたことや、カジノ産業がアジア各所で盛り上がりを見せたことで顧客が分散していたことも、カジノライセンスを複数社に開放したことと大きく関係していました。
マカオ内で市場を活性化させ、何とか巻き返しを図ろうとしたことを象徴する出来事が、外資の参入でした。

2002年、外資参入

2002年、程なくして外資が参入することとなり、独占許可を出した3社に加えサブライセンスとして3社が加わり、以下の6社が現代まで続くマカオのカジノ産業を担っています。

SJM(マカオ系・STDMの後継会社)

  • ウィン(米国系)
  • サンズ(米国系)
  • MGM(米国系・スタンレーホーの長女が最高責任者)
  • メルコ(香港系・スタンレーホーの長男がCEO)
  • ギャラクシー(香港系)

外資は参入しているものの、スタンレー・ホー一家の資本参加は半数に及び、彼がカジノ王と呼ばれる所以を感じられるのではないでしょうか。

また、外資参入後は市場競争が激化し、米国企業が次々と10億ドル規模のカジノ施設を建設しました。
一方で、これまで一社独占で利益を得てきたスタンレー・ホーも勝負に応じるかの如く、近代的で高級なカジノホテルを建設し、中国人富裕層の誘致に拍車をかけることに成功します。
2006年にはこうしたマカオ内での市場競争が功を奏し、ラスベガスの売り上げを超える結果となったのです。

2006年、マカオがラスベガスの総売上(GGR)を超える

マカオで営業するカジノは22件、2006年度の総収益は562億パタカ(約8346億円)でした。
一方で、大規模なカジノが立ち並ぶラスベガスのカジノ40数件の総収益は66億ドル(約7840億円)でした。
2006年、マカオはカジノ総売上でラスベガスを超え、誰もが認めるカジノの遊興地となったのです。

ちなみに、マカオが総売上でラスベガスを抜いた背景として、マカオが1999年に中国に返還され特別行政区となり、中国人のマカオ渡航が解禁されたことが大きく関わっているとされています。
2006年にマカオを訪れた観光客は過去最大の2200万人で、そのうち半数以上の1200万人が中国本土、700万人が香港からの観光客だったというデータもあります。

マカオのカジノの現状

2015年 カジノ収益が減少 → 経済回復案を画策 → 現在も統合型リゾートへの転換を続けている

中国人富裕層を顧客とし、カジノ経営権を外資へと開放した結果、マカオは世界最大のカジノ市場となりました。
しかし、マカオのカジノ収益は中国人富裕層に依存していたこともあり、反腐敗キャンペーンや中国経済の成長鈍化により2015年以降カジノ収益は落ち込むこととなります。
このことでマカオのカジノが中国の官僚などのマネーロンダリング先として使われていたという疑惑が浮き彫りになりました。
更に、アジア各地でカジノ産業が盛んになり、顧客が分散したことも収益の落ち込みの原因として考えられます。

その後はマカオもカジノ産業をなんとか盛り返そうと、ターゲットを従来の富裕層からマス層へと移し、まさにラスベガスのような「観光とレジャーの世界的な拠点」となるべく、統合型リゾート化やインフラ整備が今もなお進められています。

転換期を迎えるマカオのカジノ産業

マカオのカジノの目まぐるしい発展には、想像を超える歴史的背景があったと感じた人も多いのではないでしょうか。

マカオは東洋のラスベガスを目標に、地域を発展させるべく様々な政策を打ち出し、カジノを地域産業として成長させてきました。
しかし、ここ十数年間で賭博税に頼りきった政治には限界があることを突きつけられました。

当初目標としていたラスベガスを売り上げベースで超えた今、マカオはカジノ王スタンレー・ホーの息子や娘を筆頭に、カジノの収益モデルの転換と収益の維持向上を目指してなんとか過渡期を乗り越えようとしています。

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